都人が珍重するお酒「百済寺樽」
『百済寺樽』 この名前が、歴史史料に度々登場するのは戦国期です。
その中でも、『言国卿記』と呼ばれる当時の上級貴族山科言国の日記を紹介します。
言国は、文明13年(1481)11月24日のこととして、次のように綴っています。
「弥六ナマツエヨリ上、
便ニ津田孫六郎方ヨリ百済寺樽一荷・鷹一・シヲヒキ三予方ヘ送タフ也」
言国卿記
この日、弥六が鯰江からやってきて、津田孫六郎から預かってきた百済寺樽などが届いた、と書いています。
ちなみにナマツエというのは、百済寺の南西4kmにある興福寺領の荘園です。
当時、「樽」というのは「酒」の別称でした。
そこに「百済寺」を冠しているということは、
酒の銘柄として特別であったことを意味しています。
『百済寺樽』は、都人にとっても珍重するお酒だったのです。
書に残すほど、最高級の贈り物であった「百済寺樽」
戦国期、京の都でも有名だった『百済寺樽』
当時の史料にみるその名は、『百済寺酒』『百済』と記されることもありました。
公家や武士、僧侶、当時の上流階層の人々が日記や手紙にその名を書き込んでいます。
ある人は贈答品として、ある人はお礼の品として
『百済寺樽』をもらった立場の記述が目立ちます。
きっと、貰ってうれしい品だったのでしょう。
明応8年(1499)12月6日、京都相国寺のお坊さんが
朝の寒さをしのぐため、『百済寺』を飲んだとあります。
また文明7年(1475)10月19日、滋賀永源寺のお坊さんが
豆腐の田楽をあてに、燗をした『百済寺酒』を楽しんでいます。
ちなみに、この記録が百済寺醸造酒関係の最古の史料です。
「樽」の意味と由来
『百済寺樽』この樽の意味は何でしょうか。
この場合は、「酒」を意味します。
したがって『百済寺樽』とは、百済寺醸造の酒という意味です。
さらにこのようになったのは、当時酒の容器が「樽」であったことに起因します。
しかし、当時の樽は今のものとは異なります。
現在のものは、いわゆる「結物」です。
複数の短冊形の側板を竹のタガで締めた胴の部分に、底板と鏡蓋をつけています。
『百済寺樽』のころ、中世は胴の部分は丸太を刳り抜いて作りました。
その両側を板でふさぐわけですから、一見太鼓の様に見えます。
百済寺と同じく湖東三山の一角を占める金剛輪寺所蔵太鼓形酒筒も
長年「豆の木太鼓」として伝えられてきたものが
平成になって、お酒の容器であることが分かったと言います。
金剛輪寺所蔵太鼓形酒筒 愛荘町立歴史文化博物館平成20年秋季展示会
『太鼓型の酒器』図録より転記